即席文明社会の根本的「欠落」
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最近読んだものを中心に、個人的にオススメの本を紹介します。
(最近といってもだいぶ前ですが!本当の最近は本を読めていません)
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Image By  kasio69
自己という存在、そしてこの混乱と矛盾に満ちた世界を、どう捉えたら良いのか?
そして、自分の生きる意味とはなんなのか?

本来、このような問いに直面した時、最初に人々の目の前にあるべきなのは宗教であるはずです。
しかしながら、現在の日本においては、全くそうなっていませんね。
(目の前にあるのが、カルト、ビジネス書、情報商材、スピリチュアル、では話になりません。)
その一番重要であるはずのオプションがほとんど存在しないに近い状況というのは、大変に不幸な状況であると思います。
また人間の本質から遠く離れ、空虚な生き方を強いられる「行きすぎた物質社会」しか手にしていない日本の現在地は、戦後数十年に渡り刻苦勤勉してきた結果としては、あまりにみすぼらしいものでもあります。

さて、当たり前の話ではありますが、このような、人生における根本的な問い、実存的な問いに答えることこそが、人類歴史の長きに渡って宗教が果たしてきた役割であり、現在でもそれは継続しているということ、そしてそれを無視して、おそらく我々はどこへも行くことはできない、という現実があります。(人類は宗教に代わる何かをまだ「発見」していません。もしそのようなものがあり得るとして、ですが)

現在の日本は、戦後の上昇一方の薔薇色の時代を終え、目指すべき方向を見失い、「混乱」と「停滞」、そして「没落」へ、という苦難への道をまっすぐに進んでいるように思われます。
このような不確実で困難の多い時代を生きていくにあたり、宗教の重要性とはどのようなものでしょうか?

まず宗教の大前提として、「この世は地獄」である、ということがあります。
戦後の安定を生きてきた世代にとっては、「そうでもない」と感じているかもしれませんし、だから(地獄は解消したから)我々はもう宗教など必要としない、と考えるのも、ある意味当然とも言えるかもしれません。
しかし、この世が文字通りの地獄「でなかった」時代など、この戦後数十年くらいの先進国だけに存在した、極めて特殊かつ短い期間の話であり、長い歴史を通して世界の大抵の人々は、宗教を唯一の支えに、地獄の中を生き伸びてきたわけです。
(この戦後数十年はむしろイレギュラーであり、それ以外がノーマルであると考えるべきでしょう。また、戦後の安定は地球リミットを大幅に超える環境破壊とセットであり、持続可能なものでもないため、前提にすべきではないでしょう)

それ(宗教の存在)が、苦難の時代においても社会に一定の安定と方向性をもたらし、前進する力となってきたことは大変重要です。
そのような「原動力/エンジン」あるいは「社会の基盤」なしに、近代社会は苦難を乗り越え、健全で安定した発展を続けられるのか、人類はまだ答えを持っていません。(日本以前に、宗教なき先進国というものは存在していませんので)

そして、この問題(宗教的土台の不在)は、現在の日本社会の混迷ぶりを理解する上でも必須の観点だと思われます。
それは、「キリスト教による、キリスト教のための」西洋文明から、その成果物(社会システム、技術的発展といった謂わば副産物)のみを真似ることで発展してきた日本(東アジア諸国も大体同様)に内在する、かなり本質的な問題でもあるでしょう。
臓器移植、輸血をしたのはいいが、体が拒否反応を起こしているような状態、といったら良いでしょうか。
形式的な模倣を続けていても、内部的な動作原理との食い違いが多く、時間が経つにつれてその齟齬はますます大きくなっています。
エンジン、あるいは心臓抜きの「文明の抜け殻」を借りて着ているような、即席文明社会の綻びは、日に日に明らかになっているように思われます。

さて、このような「即席文明社会」では、信頼すべき中心の欠落、そして論理の矛盾は、個人の心の中だけではなく、社会そのものにも存在しています。
例えれば、太陽系(現代文明)の核であるはずの太陽(キリスト教)がそこには存在せず、中心にはブラックホールがぽっかりと口を開けている、といったような状態です。
そのような社会では、物事を突き詰めて考えていけば最後はブラックホールに突き当たってしまうため、一定以上は深く考えないよう自ら積極的に「思考停止」して、自己の存在を、(自動機械化した)無機質な社会システムのいちパーツへと、小さく限定して生きざるを得ません。
あるいは、金が全ての「エコノミックアニマル」的な価値観(金になるなら善、そうでなければ悪)の中で、人間性をシャットアウトし、日々心を擦り減らしながら生きていくといった以外に道がありません。
(愛や夢、希望、理想、といったものはまるで見当たらない一方で、人間の醜さ、不条理、無力感、絶望感、といったものは嫌というほどに溢れています)

そしてそうした空虚さを補うものとして、娯楽、表面的な幸福感、等々が重要な意味を持つものになってきます。
日本では、欧米諸国と比較して、表面的な娯楽、快楽の類(バラエティ番組、食の快楽、居酒屋、アニメやゲーム、パチンコ、等々)が発達していると思いませんか?(経済やイノベーション規模と比較して)
そして、過剰なまでの清潔志向、顧客サービス、快適性の追求等があります。
また、幸せの定義も、形式的な「形」に拘るものが多く、ある意味「他者からの目線」が大きく介在するものになっている、という気がします。

これらは単に文化的な違いだけによるものではなく、宗教の欠如によるところが大きいのではないかと考えています。
見方を変えると、表面的な「快楽/快適」や「幸福感」で、空虚さを埋め合わせないと、人生の価値を実感できない、ということでもあると思います。
(高学歴の人間達がこぞってゲーム事業で金儲けをする社会の姿は、果たして健全でしょうか?その分のリソース、エネルギーを本格的なイノベーションや問題解決等、未来のために振り向けていれば、どれだけのことを成し遂げられただろうか?とも思います。娯楽が常に悪いわけではありませんが、バランスは重要でしょう)

これは、本当に不幸なことです。
なぜなら、表面的な快楽や快適さは、前進のためのチャージ、生活のスパイスとしてはどれだけ役にたつものであっても、「意義ある人生の目標や目的」の代わりになるものではないからです。
そして、そういった目標や目的は、本当に物事を突き詰めた先に初めて得られるものであるはずだからです。
それが殆ど禁じられているような状況において、果たして人は本当の充足を手にすることはできるのだろうか?
ということですね。(かなり絶望的ではないでしょうか?)

そもそもとして、キリスト教の立ち位置から見ると、
日本人にとって当たり前と思われる「どうやって幸せな人生を送るか」、という人生の目標設定自体が、ベクトルが自分の方向に向いている、あるいは幸福の基準が自分に向いている、というように感じられるのではないかと思います。
おそらく、無宗教社会である日本で育った人間にとってはごく当たり前の感覚であり、疑問を挟む余地はない、と捉えられる部分だろうと思われます。
むしろ、この社会においては教育の段階からはじまり、そのようなスタンスを積極的に推進している、とも感じます。
(各個人がそれぞれに、個々の幸福を目指し競争努力することで、自然と良い社会が実現される、といったスタンス。そして、それが資本主義であり、民主主義である、という捉え方)

しかし宗教を通して世界を見ることで、「自分軸」から、「他者軸」へ大きく基準が変わり、そもそも「自分の幸せを得る」ことはそんなに重要ではないのだ、ということを知ることになり、それが大きな心の安定をもたらします。
心が安定することで、大きな課題、困難な課題にも果敢に向かっていくことができるはずなのです(おそらくは)。
それが、今日においても、世界の多くの人々が固く宗教を信じ、そのために生きている、という理由でもあるだろうと思っています。
(自分にベクトルが向くのは信仰を持たない人であれば当たり前のことですが、キリスト教ではそれは自意識/原罪、苦しみの源泉、あるいは地獄への道、と捉えます。「福音」はその苦しみからの「解放の知らせ」であり、だからこそ有難いわけです)

例えば、本物のイノベーションは「他者軸」でなければ実現することはできないはずです。
「自分軸」であれば、「これで自分はいくら儲けられるだろうか?自分は何を得られるだろうか?」といったことが主な関心事項になりますが、「他者軸」であれば、「これでどんな価値が生み出せるだろうか?世界はどのように良くなるだろうか?」といったことが主な関心事項になります。
後者の姿勢が必要なのは明らかでしょう。
(もちろん、宗教無しでも「他者軸」は不可能ではないかもしれませんが、宗教の生み出す自然な「他者軸」とは比べることができない、と思います)

もちろん、神を信じたからと言って、自分の力不足に希望を失い、絶望しそうになったりすることが、全く無くなったりはしませんが、それでも「そういうものだ」という認識があるので、その都度、生きることの意味、世界の意味について考え直すような必要はなくなると言っていいでしょう。
自分の役割がまだあるならば、それを果たすために生きるだけですし、それが終われば土に帰る(天国行きを待つ)、というだけのことです。
(いつどのように死ぬか、といったことはあまり問題でなく、むしろ問題は、それまでの間、ちゃんと神の言葉に耳を澄まし、与えられた役割を果たすべく生きられたかどうか、そして審判の結果、天国に入れるか、というところになります。)

キリスト教において、この世での生活は「天国に行くための準備期間」といった感じの位置付けになるので、いくら大金を稼ぎ、あるいは人に認められる功績を上げようとも、神に背き地獄へ行くようなことになっては人生は失敗であり、反対に現世で多少失敗しようとも(痛い眼に遭おうとも、場合によっては命を落とそうとも)、神の意思に背かず生き、天国へ入れれば人生は成功と考える、というのが、キリスト教の世界であり、信者はその目標意識をもって生きていく、ということになります。
(最初は荒唐無稽な目標に感じられますが、実践して生活していく中でその意味や意義がだんだん分かってくるのは、とても不思議な感覚でもあります)

まあ「信仰の実践」といってもそう大仰なものではなく、何もかも我慢するような堅苦しいものでもないはずだ、と思っていますが。
むしろ日本的な「我慢平等」の相互監視的世界から、創造性重視の自由主義世界へのマインドシフトとも言えるのではと思います。
その点については、自由の国アメリカを見ていただければ良いのではないか、と思います。

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