宗教改革による封建主義の打破
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最近読んだものを中心に、個人的にオススメの本を紹介します。
(最近といってもだいぶ前ですが!本当の最近は本を読めていません)
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Image By  Glen Bowman
日本においてキリスト教が退けられてきた理由と、今日まで至る相性の悪さの理由について少し書いてみようと思います。

日本は、表面的、形式的には欧米の自由主義システムを取り入れてきましたが、本質的な動作原理はむしろ封建システムに近い「何か」である、と思っています。

日本は「和魂洋才」の掛け声のもと、(キリスト教抜きの)西洋社会システムをひたすら輸入することでここまで来たわけですが、
過去には何度もキリスト教迫害があり、社会への定着を退けてきました。

なぜそのようにしてきたのか?
という問いについての答えはおそらく簡単で、「自由/個人主義」などという厄介なものを、封建システムの支配者が望むはずがない、というところに尽きると思います。
あるいは、権力の絶対性を保つには、「神のみが絶対」などという考えは、危険思想以外の何物でもなかったでしょう。
(現在、中国共産党がキリスト教を厳しく弾圧しているのも同じ理由でしょう)
また、島国であることから、脅威(キリスト教)の流入経路が限られていたことも大変大きいでしょう。
一度徹底的に弾圧すれば、島国の閉鎖性、同調圧力も働き、再び入ってくるまでには大分時間が必要だったろうと思われます。

一方、そういった弾圧がなくなった現在においても信者が増えていかないのは、
当然ながらまず第一に、天皇崇拝の反動としての、戦後の宗教アレルギーがあるでしょう。
(しかしそろそろ、その段階は卒業し、真剣に世界の歴史現実と向き合い、成熟した文明国へと脱皮しなくてはならない時期に来ていると思います。もう遅いくらいではありますが)

そしてもう一つ、この社会の根底に広く根を張る封建的価値観(教育段階から始まっています)が、キリスト教的価値観と大きく対立するものである、という点が大きいのではないかと見ています。
この国の現状の社会環境に適合的であろうとすればするほど、キリスト教的価値観からは遠ざかってしまう、そんな対立構造が存在し、(社会のベースがキリスト教である欧米社会と比べて)信仰の本格的な実践が難しい、あるいは、社会生活との両立のために、キリストの教えのうち範囲をかなり絞った捉え方に限定せざるを得ず、宗教の本質や価値、役割、魅力、重要性、等がなかなか伝わらない→結果として普及定着しない、そんな背景があるのではないか、という気がしています。
(永年の積み重ねにより、既に封建的思考様式は社会に広く行き渡り、人々のうちに内面化されており、いちいち弾圧するまでもなく、対立する考え方を受け入れる余地はなくなっている、ということかもしれません)

最後に、当然かもしれませんが、生活の中で「生きた宗教」と接する機会が圧倒的に少ない、ということもあるでしょう。
教育の中で、歴史文明におけるキリスト教の重要性が伝わるような内容は殆どありませんし、非宗教的な家庭で普通に生活している限りは、教会や聖書と接する機会も非常に少ないのではないでしょうか。
これは教えの内容を肯定する、しないという以前の状況があるということかもしれませんね。
(実際に、私も30代後半になるまで、聖書を読んだことすらありませんでした。なんと不幸なことでしょうか!)
特に日本では、「とにかく多数派の方へ進むべし」という行動指向性(又は圧力)が圧倒的に強いため、あえて少数派の価値観に分け入っていくといった行動には、積極的な動機が持たれにくいかもしれません。

また、欧米等について目にする情報知識も、圧倒的に「科学的、経済的な」視点観点が中心で、相当に偏ったものになっていると思います。
これはおそらく、情報を伝達する当事者も、社会における宗教の本当の重要性が「見えない」ため、その有形無形の影響を過小評価してしまうのだろうと思います。
(情報が伝えられている場合でも、その説明に「そうじゃないんだよなあ」と感じることが多いです。また、受け手が理解できない情報を伝えても経済的メリットが無い、といった事情もあるでしょう)

それらの結果、現在でも日本のキリスト教徒は人口の1%程度と、「極端に」少ないままとなっています。
(現在では、韓国では3割以上がキリスト教徒、中国でも1割を超えており、共産党の最大の脅威となっているということです)

欧米ではプロテスタントの宗教改革(万人祭司)の思想によって、初めて封建社会が本質的に打破されました。
聖書の中では、国王の存在は一応は認められていますが、それは人民が「統治者が欲しい」と神に懇願した結果、神が一時的な妥協として「許した」もの、というニュアンスのものになっており、聖書をちゃんと読めば「王権神授説」なるものの成立余地がないことは明白です。
一人一人がしっかり聖書を読み、それに従うことを正しいとした宗教改革が、「権力の否定」につながっていったことは間違いありません。
一方で、日本ではキリスト教、プロテスタントの精神が存在しなかったので、封建的社会構造、思考行動様式は今日に至るまで保たれたままです。

封建的社会構造というのは、力や権力を手にした者が、それを固定化しようとする、という形で形成されていくものであり、ある意味では「最も自然に」形成される原始的な社会構造とも言えます。
それに対し、現代社会における「個人主義」「自由主義」の社会というのは、ある意味で大変「不自然な」ものであり、聖書の思想なしにはまず到達し得なかったはずのものです。
(聖書の思想の支えがなければ、その「不自然な」状態を正しく維持していくこともまた、難しいでしょう)

そのようにして、封建主義が打破されたのちは、さらにキリスト教から人権、民主主義といった思想も生まれ、現代社会のシステムへと進んでいきました。
そして、キリスト教は今でもそれらを支える重要な基盤であり続けていますし、これからもそうであるはずです。

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