キリスト教と人権、民主主義
サイズ:     
最近読んだものを中心に、個人的にオススメの本を紹介します。
(最近といってもだいぶ前ですが!本当の最近は本を読めていません)
sub  
    ノート表示(LV2)
ところで、人権という概念は一体どこからきているのでしょうか?
私の考えは以下のようなものです。

まず第一に、当たり前の話ですが、キリスト教のベースに、弱者に「こそ」優しくあれというのがあります。(隣人を愛せよ、の隣人とは「弱者」のことを指します)
これが人権思想のベースにあることは間違い無いでしょう。

また、キリスト教では、地上に生を受けた人間の一人一人に神の計画がある、と考えます。
ここでの「神の計画」は、我々人間に知りうるものではなく、我々人間の価値基準で測れるものではありません。

例えば、新約聖書では、路上生活者のラザロや犯罪者が天国に行き、金持ちが地獄に行くといったエピソードが出てきます。(「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しい」というイエスの喩えもあります)
つまり、地上において役に立つ、立たない、あるいは社会的に評価される人間、評価されない人間、といったことは必ずしも神の評価と一致せず、我々人間には神の計画、評価がどこにあるかを知ることはできない、という大前提があるのです。
そのため、社会的にはどのような人間でも、「役割」を果たすべく生きられる社会である必要がある(そのためにこそ社会は存在する)、という考え、すなわち天賦の「人権」という概念が生まれてきます。

もちろんここでの「役割」とは、人間社会における役割ではなく、神が与えた役割のことです。
社会の役に立つ、立たない、といったこととは全く別次元の話であり、我々人間には、内容を知ることも評価することもできません。
人間の価値は「知り得ない」のです。
そして、その「知り得ない」価値を大事にすることのできない社会は「失敗」なのです。
このような思想的背景、そしてその理解があって、初めて「人権」、そして「平等」というものは意味のあるものになります。
人権とは、「かわいそうだから助けてあげる」といった次元のものではなく、神の前における社会(そして構成員たる各人)の正当性、存在意義に関わる大問題なのです。
(単なるお題目ではないのです)

一方で、宗教のない日本社会ではどこまで行っても相互扶助、共同体の概念の延長でしか、ものを考えることができません。
そのため、「我々にとって役に立たない人間をなぜ我々が支える必要があるのか」「立場の弱い者が立場の強い者に従うのはある程度は仕方ないではないか」という感覚がどうしても付き纏い、「人権」という言葉には、常にどこか胡散臭さ、あるいは綺麗事、建前、といったイメージが伴っているのではないかと思います。
(一応、欧米に合わせて振る舞ってはいますが、本質を理解しているとは感じられませんね。難民受入れなども壊滅的ですし)

次に、民主主義についてはどうでしょうか?
これは上に挙げた宗教改革による「権力の否定」、そしてそれに代わる「万人祭司」による統治、というものがベースになっているのは想像に難くありません。
このように生まれた民主主義が正しく機能するための条件として重要なのが、国民一人一人が、(単なる利害や個人的状況のみに引っ張られず)自分の「価値判断」ができること、すなわち「万人祭司」として統治の「主権者」たりうる覚悟を持ち、学び、議論を重ねられるか、といったことであるわけですが、そのような基礎を支える「聖書の精神」に代わるものを、日本社会、そして日本人が持ち得たかどうか、ということが大きな問題になります。

欧米以外(非キリスト教圏)で、初めて本格的に民主主義を取り入れる「実験」をしたのが日本であるわけですが、結局、未熟児のような民主主義しか手にすることができていない理由は、こんなところにもあるだろうと思っています。

結局のところ、今日に至るまで日本社会、あるいは日本人は、基本的に価値判断を全て欧米に丸投げしてきたと言って良いでしょう。
そうである(自分で価値判断をしなくて良い)ならば、確かに宗教は「無用の長物」であるかもしれません。
アメリカによって敷かれたレールの上をひたすら走るだけの社会であれば、
あるいは、欧米の生み出した価値観、技術、アイデア等を忠実になぞるばかりの人生であれば、
「価値判断の羅針盤」であるところの宗教は確かに必要ないのかもしれません。
(「損得勘定」ができればそれで十分、ということにもなるでしょう。もちろんここでの「価値判断」は「損得勘定」とは別のものです)
「世界がこうしているから」我々もそうする、ということであれば、「価値判断」などという面倒なことに頭を悩ませる必要もないでしょう。
あるいは戦後の数十年というのは、それで良い時代だったのかもしれません。

しかし、大海原のど真ん中に投げ出され、どこへ向かって進めば良いのかわからないような「混迷の時代」、あるいは「本当の自由世界」では、行き先を照らす光、すなわち宗教の存在は決定的に重要です。
人間は何かの価値判断をする際に、何もない真空から価値判断をすることはできません。
必ず何かの基準に沿って価値判断を行うことになりますが、それが実物の社会や組織、利害、慣習等と切り離されていることが非常に重要なのです。

そうでなければ、新たになすべき価値判断が、既にある既成事実や既存環境に大きく引きずられてしまい、あるいは常に多数派の意見や既存の制約事項の中でのみ価値判断を行うことになり、過去を乗り越えることができず、社会は停滞してしまいます。
(さらに、年功序列といった儒教的価値観が強い日本のような国では、現状をまるで理解しない老人達に未来を託さざるを得ない、という状況まで重なってしまい、絶望的な硬直化が避けられません)

(戒律主義でない)キリスト教社会では、神、聖書という最も抽象的なものに基準が置かれていることで、「現状の軛」「慣習の罠」から自由であることが保証され、(神の名の許に)柔軟で公平、合理的かつ普遍性のある「価値判断」が、「状況の変化に合わせてその都度」行われることを可能にし、それが、現代社会システムの「強さの礎」となってきたと思います。

しかしながら最近は、欧米諸国においても宗教離れと世俗化が進み、そうした「前提」も怪しくなってきているようです。
特に、社会リーダーであるエリート層の宗教離れ(あるいは信仰の変質)は、タガの外れたグローバリズム推進や資本エリート優遇、格差や貧困の無視/軽視など、社会倫理やバランスの維持に深刻な影響をもたらしているように感じられます。
それらが、極右勢力の台頭、過激派勢力の拡大、などを招き、世界の不安定化に繋がっているのではないかという気もしています。

  sub_notes (LV3)   全て開く   全て閉じる

  コメント

  コメントを書く
ads