コントロール信仰の問題と、科学の限界
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最近読んだものを中心に、個人的にオススメの本を紹介します。
(最近といってもだいぶ前ですが!本当の最近は本を読めていません)
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コントロール信仰の問題と、科学の限界   LV2     Link:no title  
宗教なき社会の大きな問題点の一つとして、「人間によるコントロール」を過信しすぎる点が挙げられると思っています。

宗教離れが進み世俗化の進んだ現代社会の一つの病として、「何もかもをコントロールし、秩序化するべき」であるという指向性、圧力が存在していると思います。
(そもそも宗教的土台のない日本においては指向性は殊更大きいはずです)

しかしながら、コントロールは常に正しいのでしょうか?
また、「獲得すべく努力すれば獲得できる」種類のものであり、目指すべきものなのでしょうか?
「自分たちで何でもコントロールできる」と言う幻想のもと、人類は地球の限界負荷を遥かに超えるエネルギー消費社会を生み出してきてしまいました。(コントロールは結局、できていなかったわけです。)
また、個人単位で考えれば、コントロールを一旦手放した先でなければ、真の芸術を産み出すこともできなければ、創造的イノベーションも産み出せません。神を受け入れることもまた、できません。
そして、社会単位では、弱者やマイノリティに優しい社会、あるいは多様性のある社会も、実現できないでしょう。

一定のコントロールの放棄(神に任せること)、を前提としなくては、真に人間にとって価値ある世界は実現できないはずだ、と考えます。
むしろ、コントロールを積極的に手放す能力こそ、人間や社会の真価が問われる部分ではないか、とも考えています。
(もちろんコントロールを完全に失えばそれは狂人であり、また無政府状態でもあるわけで、程度ややり方の問題はありますが)

そういった観点から、コントロールを手放すことを忘れた(あるいは「知らない」)現在の日本は、大変危機的な状況にあるとも感じています。
未来から限度を超えた借金を重ね、現在の社会序列や既得権を無理矢理にでも保とうという社会のあり方は、およそ天に唾するものでありますし、官僚誘導的な経済、円安誘導(今はないですが)、無際限な金融緩和、恣意的な許認可や業界規制、バラマキ、受験競争に年功序列、終身雇用、そして「自助、共助、公助」「自己責任」といった言葉がポンと出てくるといった、様々な「コントロール信仰」はいずれ必ず、自らを滅ぼす原因になるはずです。

あるいは既に、そうなりつつあるかもしれません。
どこまでも進む少子化に、止まることを知らない過剰債務、という最悪の組み合わせを解決する道は、果たしてあるのでしょうか?
そして、この国の政治家は「隷属への道」すら読んでいない、あるいは読んでも意味を理解していないのではないか?とも感じます。
野党に至っても「大きな政府」路線を批判しようという勢力すら見当たりません。
どこを向いてもポピュリズムしかなく、与党も野党も、政治家達は権力の椅子に座りたいだけで、国の未来など真面目に考えてはいない、というのが実態かもしれません。
(但し現在の石破総理はプロテスタントなので、バランス感覚に一定の期待を持っています)

例えば、戦後の日本の発展の下地は、戦争による既存秩序の解体、アメリカによる寛大な民主化政策等により、「たまたま」生じた「封建社会の空白」により準備されたものであり、「自分たちの知恵と努力」によって獲得したものではありません。
その後、戦後世代が必死に努力したことによりここまで発展してきたことは間違いありませんが、その前提条件を整えたのは自ら知恵と能力ではなく、歴史の偶然です。

しかし、高度成長の大きな成功体験はそういった「コントロール外の要素」「自らの能力を超えた要素」があったことを忘れさせ、最終的に、現在の危険な「コントロール至上主義」へと邁進する下地となってしまいました。
(あるいは自分たちの努力の成果を賛美したいがために「あえて忘れてきた」「見ないことにしてきた」のかもしれません。)
気がつけば、戦後にはあったはずの、自由で挑戦可能な環境は失われ、徳川時代のごとき封建的な社会が復活してしまっているのが現状です。
柔軟で弾力性のある社会実現のために、コントロールを手放す「知恵」が足りなかった、ということではないかと思います。

また、コントロールをもっと遡って考えてみれば、
文明の進歩発展は誰かの意図やコントロールによって為されてきたものではありませんし、
さらには、ものを考え、科学的発見を可能にする「脳」自体、我々が意図し、努力して獲得したものではありません。
DNAや、生物の進化は?我々はいかにしてこのような高度な機能と能力を備えた生命体として存在するようになったのでしょうか?
もちろんですが、我々は自らの努力とコントロールによってこのような存在へと辿り着いたわけではありません。

それでは、科学はそれらに何らかの答えを与えてくれるでしょうか?
否、それどころか真っ向から矛盾しているのではないでしょうか。
我々を我々として存在させているのは、DNAであり、高度な脳であり、消化や代謝、免疫、神経を含めた高度な生物機能であるわけですが、自然に、全くの偶然から、そのようなものが生まれるのは確率的に「ゼロ」と言っていいでしょう。(数学や確率理論を持ち出すまでもなく、直感でも「あり得ない」ことは明らかです)

また、無から有(無秩序から秩序/機能)が生み出される科学理論というのは寡聞にして知りません。
もしそのような法則が存在するとして、我々人類はその理解への第一歩目すら踏み出せていないと思われ、そこからの解明に答えを期待して生きることは難しいと言わざるを得ません。
その点で、科学はまるで無力であり、はるか昔から説明(ストーリー)を与えてくれている宗教に遥かに分があります。

本当に科学的に真面目に考えるのであれば、我々は存在してはいけないはずであり、存在すること自体が、現在科学の説明する世界と根本的なコンフリクトを抱えています。
エントロピー増大の法則(科学)に真っ向から対立し矛盾する秩序的機能的存在、それが生命であり、我々人間であり、地球上の生態系である、というわけです。
むしろ、そういった根本的矛盾の存在を平気で無視し「今は科学の時代」「宗教は過去の産物」と簡単に言う人々こそ、批判的思考力を疑わざるを得ません。

また、それらの矛盾を説明しようと(厳密には違うかもしれませんが)、多世界宇宙などSF的な理論も登場しているようですが、私にはそのような線からも存在の矛盾が解明されるとは思えません。
仮にそのような理論が正しかったとしても、なぜ我々はこのように完全に(破綻なく)秩序立てられた世界に「たまたま」存在しているのか?という問いに答えうる科学的手段は結局、存在しないだろうと推測します。
つまり、「科学から答えは得られない」だろうということです。
そしてそれは、神が我々に「証拠」を持たずに「信じる」ことを求めていることと一致します。

「証拠」があるなら「信じる」という行為は成立しませんよね?(それは「理解」になります)
しかし聖書の神は人に「信じる」ことを求めています。
つまり、「証拠」は与えられないはずだ、ということであり、それは聖書のベクトルからすれば自然なことです。
(「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」、とも書いてあります)
神が「あえて」そうしたのか、手段がなかったのか、は分かりませんが、証拠が与えられることはない、見る前に飛べ、ということですね。
信仰とは自らのコントロールを一旦手放す(神に委ねる)ということでもあります。
そしてそれが「信仰」の非常に重要な部分を成しています。

「信じる」という行為自体が大変重要なのですね。
もし「信じる」能力でなく、「理解する」能力によって神に評価されるとしたらどうでしょうか?
貧しい家に生まれ、十分な学問を積むことができなければ正確な知識を持って「理解する」ことはできませんが、神はそのようなことを望んでいません。
2000年前の人々にも、犯罪者にも、ホームレスにも、神を信じることは可能です。そうでなくては意味がありませんし、新約聖書ではホームレスのラザロや犯罪者が天国へ行き、金持ちが地獄へ行く様子が描かれています。
社会的にはどんな人間でも、悔い改めて神に従うならば天国に入れる、この福音があるからこそ宗教として意味を成します。(救いになり得ます)
抽象的になりますが、「信じる」能力こそが、人間と動物を分けるものではないか、とも思っています。

日本においては「信じる」のは愚か者の行為だ、というくらいに考えられているのではないかと思いますが、人間の本質に対する大変な考え違いではないかと思っています。

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