科学と宗教
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最近読んだものを中心に、個人的にオススメの本を紹介します。
(最近といってもだいぶ前ですが!本当の最近は本を読めていません)
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ここで、科学と宗教の対立についての考えをもう少し書こうと思います。
日本では宗教と科学は全く対立することのように考えられていますが、私はそれとは反対に、相互補完し何倍にも強め合うものだと考えています。

まず前提として、科学は我々に自然を分析し、操る(manipulate)能力を与えてくれていますが、
そもそもなぜ物質や生命が存在するのか、また科学法則はどこからきているのか、といった最も根源的な問いにアプローチする力は持っていません。
(先述のように、我々の存在一つ、さらにはバクテリアの存在一つ、科学では説明できませんし、ゼロから作り出すこともできません)

一方、新約聖書には、「はじめに言葉があった。すべてのものは言葉によって作られた。言葉によって作られなかったものは一つもなかった。」と書かれているわけですが、
物理化学法則、物質の構成、DNA、等々、宇宙を構成するものはすべて完全に「言葉(ロジック)」であり、数百年かけて科学が解き明かしてきた「世界の構造」は、ある意味その時すでに言い当てられているわけですね。
元素もDNAも知られていなかった2000年前の書物に、このように書かれていることは大変な驚きではないでしょうか。
(その当時の人々が、「世界は全て同じ原理原則で貫かれている」などと想像できたはずもなく、偶然にしては出来すぎていると思います。果たして神でなくて知り得ただろうか?ということですね)

つまり世界の理解という意味においては、大筋において、科学は聖書の裏書きをしてきたにすぎないかもしれません。
そして、殊に存在論的なテーマにおいては、科学の力は足許にも及びません。
宗教において大事なのは世界や人生の意味づけであり、パースペクティブであり、思想理念の追求である、ということです。
つまり、役割や守備範囲、ベクトルの向きが全く違うのであり、「科学があれば宗教は要らない」は全く的外れの議論と言えますが、日本ではそのような表層的な考えに囚われ、空虚な世界観(世界や人生は無意味、人間の存在はランダムな自然淘汰の結果に過ぎず本質的に無価値、金/快楽/快適/安全、そして生存競争が全て、等々)で生きる人々が多いと思います。
(それがこのようなギスギスした「生きづらい」、「息苦しい/閉塞した」環境を生んでいるとも思います。)

宗教と科学は、お互いに補い合って、世界と人生にトータルな意味づけと手段を提供するものであり、どちらも人類にとって欠かせないものです。
どちらかを欠けば、世界の意味は半分(あるいはそれ以下)になってしまいます。

また例えば、「進化論があるのに、神が土から人を作ったなどと書いてある聖書は間違いだ」と否定する見方も多いかと思いますが、それについては、神はその時の人々に伝わる言葉でメッセージを伝えた、ということに過ぎないと考えます。
2000年前の人々に、
「常に変化する地球環境に適切に追随しつつ生物的に発展していくメカニズムとして、ランダムネスを取り入れたDNAというものを考案し、ものを考え文明を築く能力を持つ人間という存在に、最終的に到達するように設計した(人間を作った)」
と言っても、何も伝わらないはずですよね。

ところで、「進化論は完全なランダム」といったイメージが一般的にあるかと思いますが、そんなことでこんな高度な機能体が実現するはずがありませんよね。
外界の食物からエネルギーや体の成分を作る消化機能を持ち、光信号を神経で伝達し映像化処理を行い、あり得ない小サイズ&小エネルギーで稼働する万能AIや、自動生成するウイルス駆除機能、まで、皆が最初から備えています。(ネズミやハエさえも!)
人間に至っては、大きな病気さえなければ、部品交換なしで100年も稼働可能な究極の有機化合物マシン(超高性能AI搭載)です。凄過ぎますよね。

そして、それらの高度な機能の全てが、目に見えないDNAにコードされているという、奇跡のシステム/メカニズムが存在するわけですが、そんなものが「偶然に発生した」などということが有り得るでしょうか?
NO WAY !! 小学生でも「あり得ない」とわかるのではないでしょうか!
それなのに、大人達はどうしてそんなナンセンスを平気で受け入れているのでしょうか?
(大人になると「バカ」になってしまうのでしょうか?)

進化におけるランダムネスは、(動的に変化する)地球環境に合わせて方向を修正し、同時に多様性を確保するためのメカニズムとしてあらかじめ「仕込んで」あるのであり、戦略的に組み込まれている一要素(複雑高度な進化メカニズムのうちの)に過ぎないだろう、と思っています。
一要素に過ぎないはずのランダムネスを過大評価しすぎて、「進化論=ランダム=唯物論の証拠」のようになってしまっているのは残念でなりません。
ランダムネスが大きすぎても、小さすぎても、奇形だらけになるか、環境変化に追随できず滅亡するかで、到底種を保つことはできないはずで、実に絶妙な範囲に設定されているではないか、と思います。
(自然淘汰により自然と適切値に集約されるのだ、と言ってみても、やはり出来過ぎの感は免れませんし、そもそも集約され適切値に落ち着く「メカニズムの存在」があるなら、それ自体が出来過ぎですよね!)

逆に考えれば、常に変化する地球環境の中にあって、ランダムネスを含まない固定的システムとして生命を設計していれば、いずれ機能しなくなるのは明白なので、ランダムネスをシステムに組み込むことは(設計者にとって)当然の判断であり、進化におけるランダムネスの存在は全く驚くに当たらない「自然な帰結」とも言えるのではないかと思います。(つまり、ランダム=神の不在、と短絡的に結びつけることに意味はないだろう、ということです)

そしてさらに、進化の背後には、ランダムネスとは別に、(我々の未だ知らない、何らかの)方向性を決めるメカニズムが存在しているはずであり、「最終的にこのような状態に到達すべく進んでいく」といった「方向性」がなければ、ランダムの繰り返しだけでこのような複雑高度な機能体へ辿り着くはずがない、というのが私の考えです。
(最終的な状態として、姿形までの想定があったのかどうかは分かりませんが、少なくとも聖書には「神に似せて人を創った」とありますので、「創造する存在」としての性能目標は存在し、それは達成されているのではないかと思います。創造と、神との交信(信仰)が可能であれば、姿形はネズミ、あるいはタコのようなものでも良かった、かもしれませんね。勝手な想像ですが!)

さて、「機能体に対する計画の必要性」を、もう少し具体的にイメージするための例として、例えば生成AI技術を挙げてみると、その中で使用されているランダムネス(確率的要素)は、確かに学習や応答の重要な位置を占めているわけですが、あくまでメカニズムの一部として高度な数学理論の上に組み立てられ、戦略的に「利用」されているのであり、作り手が様々なパラメータを調整しながら試行錯誤を重ねることで、ようやく意味のある回答を返すことができるようになるわけですよね。(それでもあのような人間的な回答は「奇跡的」と感じますが!)

そのような明確な設計もなく、何の意図も方向性もない「単なるランダム試行」をどれだけ繰り返しても、意味のある回答を返すAIなどできるはずがない、というのは考えるまでもなく明らかなことだと思います。
同じようなことは自然界の進化についても言えるはずだ、というのは、(素直に考えれば)当然のことではないでしょうか。
単なるランダムから、意味のある機能体が生まれる可能性は間違いなく「ゼロ(0.000000.....)」です!

聖書の記述では、例えば「神が人間を創った」ことを、「当時の人々が直感的にイメージできる言葉」で表現されているので、科学知識の発達した現代の我々には大いに違和感があるわけですが、当時(そして現在に至るまで)の人々にメッセージを伝えることには成功しており、その事実が最も重要なわけです。
神を信じ、それに叶う世界を築こうと人々が努力を重ねてきた結果が現在の文明であるわけで、この文明に何らかの価値があるとするならば、(科学的には間違いであっても)当時の人々にメッセージを伝えた意味は大変に大きかった、と言えるのではないかと思います。

そのように考えれば、「科学的に間違った」記述があるからといって、聖書を否定すべき理由には全くならない、ということが納得されるのではないでしょうか。
(科学的に不正確な記述=信じるに値しない、という観点は枝葉末節であり、重箱の隅であり、また近視眼的、というものでありましょう。)

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