キリスト教視点で見た世界についての個人的考え(長文)
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最近読んだものを中心に、個人的にオススメの本を紹介します。
(最近といってもだいぶ前ですが!本当の最近は本を読めていません)
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#### 「キリスト教の眼鏡」越しに見る世界

宗教の眼鏡を通して世界を見ると、天動説から地動説への転換のように、それまでとは全く違った世界が見えてきます。
その「見え方」をどうにか言語化し、伝えることができないかと、自分なりに考えをまとめてみたものです。

日本社会に強固に存在する、宗教に対する強い偏見や思い込みを、少しずつでも取り除いていく試みは、これからの時代に、大変重要になると思っています。
誤った世界認識から、正しい未来を導き出すことはできない、と思うからです。

個人的な「感覚」で書いているので、いろいろ間違いも多いと思いますが、「大筋」を読んで頂けると幸いです。

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(サブノート)

- 即席文明社会の根本的「欠落」
- 宗教と文明、そして平和
- キリスト教と自由、そしてイノベーション
- 宗教改革による封建主義の打破
- キリスト教と人権、民主主義
- コントロール信仰の問題と、科学の限界
- 科学と宗教
- 宗教と時代のパースペクティブ
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自己という存在、そしてこの混乱と矛盾に満ちた世界を、どう捉えたら良いのか?
そして、自分の生きる意味とはなんなのか?

本来、このような問いに直面した時、最初に人々の目の前にあるべきなのは宗教であるはずです。
しかしながら、現在の日本においては、全くそうなっていませんね。
(目の前にあるのが、カルト、ビジネス書、情報商材、スピリチュアル、では話になりません。)
その一番重要であるはずのオプションがほとんど存在しないに近い状況というのは、大変に不幸な状況であると思います。
また人間の本質から遠く離れ、空虚な生き方を強いられる「行きすぎた物質社会」しか手にしていない日本の現在地は、戦後数十年に渡り刻苦勤勉してきた結果としては、あまりにみすぼらしいものでもあります。

さて、当たり前の話ではありますが、このような、人生における根本的な問い、実存的な問いに答えることこそが、人類歴史の長きに渡って宗教が果たしてきた役割であり、現在でもそれは継続しているということ、そしてそれを無視して、おそらく我々はどこへも行くことはできない、という現実があります。(人類は宗教に代わる何かをまだ「発見」していません。もしそのようなものがあり得るとして、ですが)

現在の日本は、戦後の上昇一方の薔薇色の時代を終え、目指すべき方向を見失い、「混乱」と「停滞」、そして「没落」へ、という苦難への道をまっすぐに進んでいるように思われます。
このような不確実で困難の多い時代を生きていくにあたり、宗教の重要性とはどのようなものでしょうか?

まず宗教の大前提として、「この世は地獄」である、ということがあります。
戦後の安定を生きてきた世代にとっては、「そうでもない」と感じているかもしれませんし、だから(地獄は解消したから)我々はもう宗教など必要としない、と考えるのも、ある意味当然とも言えるかもしれません。
しかし、この世が文字通りの地獄「でなかった」時代など、この戦後数十年くらいの先進国だけに存在した、極めて特殊かつ短い期間の話であり、長い歴史を通して世界の大抵の人々は、宗教を唯一の支えに、地獄の中を生き伸びてきたわけです。
(この戦後数十年はむしろイレギュラーであり、それ以外がノーマルであると考えるべきでしょう。また、戦後の安定は地球リミットを大幅に超える環境破壊とセットであり、持続可能なものでもないため、前提にすべきではないでしょう)

それ(宗教の存在)が、苦難の時代においても社会に一定の安定と方向性をもたらし、前進する力となってきたことは大変重要です。
そのような「原動力/エンジン」あるいは「社会の基盤」なしに、近代社会は苦難を乗り越え、健全で安定した発展を続けられるのか、人類はまだ答えを持っていません。(日本以前に、宗教なき先進国というものは存在していませんので)

そして、この問題(宗教的土台の不在)は、現在の日本社会の混迷ぶりを理解する上でも必須の観点だと思われます。
それは、「キリスト教による、キリスト教のための」西洋文明から、その成果物(社会システム、技術的発展といった謂わば副産物)のみを真似ることで発展してきた日本(東アジア諸国も大体同様)に内在する、かなり本質的な問題でもあるでしょう。
臓器移植、輸血をしたのはいいが、体が拒否反応を起こしているような状態、といったら良いでしょうか。
形式的な模倣を続けていても、内部的な動作原理との食い違いが多く、時間が経つにつれてその齟齬はますます大きくなっています。
エンジン、あるいは心臓抜きの「文明の抜け殻」を借りて着ているような、即席文明社会の綻びは、日に日に明らかになっているように思われます。

さて、このような「即席文明社会」では、信頼すべき中心の欠落、そして論理の矛盾は、個人の心の中だけではなく、社会そのものにも存在しています。
例えれば、太陽系(現代文明)の核であるはずの太陽(キリスト教)がそこには存在せず、中心にはブラックホールがぽっかりと口を開けている、といったような状態です。
そのような社会では、物事を突き詰めて考えていけば最後はブラックホールに突き当たってしまうため、一定以上は深く考えないよう自ら積極的に「思考停止」して、自己の存在を、(自動機械化した)無機質な社会システムのいちパーツへと、小さく限定して生きざるを得ません。
あるいは、金が全ての「エコノミックアニマル」的な価値観(金になるなら善、そうでなければ悪)の中で、人間性をシャットアウトし、日々心を擦り減らしながら生きていくといった以外に道がありません。
(愛や夢、希望、理想、といったものはまるで見当たらない一方で、人間の醜さ、不条理、無力感、絶望感、といったものは嫌というほどに溢れています)

そしてそうした空虚さを補うものとして、娯楽、表面的な幸福感、等々が重要な意味を持つものになってきます。
日本では、欧米諸国と比較して、表面的な娯楽、快楽の類(バラエティ番組、食の快楽、居酒屋、アニメやゲーム、パチンコ、等々)が発達していると思いませんか?(経済やイノベーション規模と比較して)
そして、過剰なまでの清潔志向、顧客サービス、快適性の追求等があります。
また、幸せの定義も、形式的な「形」に拘るものが多く、ある意味「他者からの目線」が大きく介在するものになっている、という気がします。

これらは単に文化的な違いだけによるものではなく、宗教の欠如によるところが大きいのではないかと考えています。
見方を変えると、表面的な「快楽/快適」や「幸福感」で、空虚さを埋め合わせないと、人生の価値を実感できない、ということでもあると思います。
(高学歴の人間達がこぞってゲーム事業で金儲けをする社会の姿は、果たして健全でしょうか?その分のリソース、エネルギーを本格的なイノベーションや問題解決等、未来のために振り向けていれば、どれだけのことを成し遂げられただろうか?とも思います。娯楽が常に悪いわけではありませんが、バランスは重要でしょう)

これは、本当に不幸なことです。
なぜなら、表面的な快楽や快適さは、前進のためのチャージ、生活のスパイスとしてはどれだけ役にたつものであっても、「意義ある人生の目標や目的」の代わりになるものではないからです。
そして、そういった目標や目的は、本当に物事を突き詰めた先に初めて得られるものであるはずだからです。
それが殆ど禁じられているような状況において、果たして人は本当の充足を手にすることはできるのだろうか?
ということですね。(かなり絶望的ではないでしょうか?)

そもそもとして、キリスト教の立ち位置から見ると、
日本人にとって当たり前と思われる「どうやって幸せな人生を送るか」、という人生の目標設定自体が、ベクトルが自分の方向に向いている、あるいは幸福の基準が自分に向いている、というように感じられるのではないかと思います。
おそらく、無宗教社会である日本で育った人間にとってはごく当たり前の感覚であり、疑問を挟む余地はない、と捉えられる部分だろうと思われます。
むしろ、この社会においては教育の段階からはじまり、そのようなスタンスを積極的に推進している、とも感じます。
(各個人がそれぞれに、個々の幸福を目指し競争努力することで、自然と良い社会が実現される、といったスタンス。そして、それが資本主義であり、民主主義である、という捉え方)

しかし宗教を通して世界を見ることで、「自分軸」から、「他者軸」へ大きく基準が変わり、そもそも「自分の幸せを得る」ことはそんなに重要ではないのだ、ということを知ることになり、それが大きな心の安定をもたらします。
心が安定することで、大きな課題、困難な課題にも果敢に向かっていくことができるはずなのです(おそらくは)。
それが、今日においても、世界の多くの人々が固く宗教を信じ、そのために生きている、という理由でもあるだろうと思っています。
(自分にベクトルが向くのは信仰を持たない人であれば当たり前のことですが、キリスト教ではそれは自意識/原罪、苦しみの源泉、あるいは地獄への道、と捉えます。「福音」はその苦しみからの「解放の知らせ」であり、だからこそ有難いわけです)

例えば、本物のイノベーションは「他者軸」でなければ実現することはできないはずです。
「自分軸」であれば、「これで自分はいくら儲けられるだろうか?自分は何を得られるだろうか?」といったことが主な関心事項になりますが、「他者軸」であれば、「これでどんな価値が生み出せるだろうか?世界はどのように良くなるだろうか?」といったことが主な関心事項になります。
後者の姿勢が必要なのは明らかでしょう。
(もちろん、宗教無しでも「他者軸」は不可能ではないかもしれませんが、宗教の生み出す自然な「他者軸」とは比べることができない、と思います)

もちろん、神を信じたからと言って、自分の力不足に希望を失い、絶望しそうになったりすることが、全く無くなったりはしませんが、それでも「そういうものだ」という認識があるので、その都度、生きることの意味、世界の意味について考え直すような必要はなくなると言っていいでしょう。
自分の役割がまだあるならば、それを果たすために生きるだけですし、それが終われば土に帰る(天国行きを待つ)、というだけのことです。
(いつどのように死ぬか、といったことはあまり問題でなく、むしろ問題は、それまでの間、ちゃんと神の言葉に耳を澄まし、与えられた役割を果たすべく生きられたかどうか、そして審判の結果、天国に入れるか、というところになります。)

キリスト教において、この世での生活は「天国に行くための準備期間」といった感じの位置付けになるので、いくら大金を稼ぎ、あるいは人に認められる功績を上げようとも、神に背き地獄へ行くようなことになっては人生は失敗であり、反対に現世で多少失敗しようとも(痛い眼に遭おうとも、場合によっては命を落とそうとも)、神の意思に背かず生き、天国へ入れれば人生は成功と考える、というのが、キリスト教の世界であり、信者はその目標意識をもって生きていく、ということになります。
(最初は荒唐無稽な目標に感じられますが、実践して生活していく中でその意味や意義がだんだん分かってくるのは、とても不思議な感覚でもあります)

まあ「信仰の実践」といってもそう大仰なものではなく、何もかも我慢するような堅苦しいものでもないはずだ、と思っていますが。
むしろ日本的な「我慢平等」の相互監視的世界から、創造性重視の自由主義世界へのマインドシフトとも言えるのではと思います。
その点については、自由の国アメリカを見ていただければ良いのではないか、と思います。

キリスト教において、この世界の不条理、困難はどのように捉えられているでしょうか?

キリスト教では、故なく社会的に迫害され、十字架にかけられ、無抵抗で死んでいくイエスを神として信仰の対象としています。
イエスにとって、そのような世界は地獄ではなかったでしょうか?(もちろん「地獄」と呼んで良いでしょう)
つまり、そのようなイエスの生き様を自らの手本とするキリスト教には、出発点として「この世は地獄である」という前提が織り込まれていると言って良いと思います。

だからこそ、そこから天国へ入るために命をも投げ出す「自己犠牲」が生まれてきます。
「自己犠牲」は、単に人に施しを与えるとか、他者を助けるために自分の生活や財産を犠牲にするとか、
ということだけを指すのではありません(もちろんそれらは大変重要ではありますが)。

真理を探究し、文明を前に進める科学も、神を信じる科学者たちの多くの献身と自己犠牲(真理に対する)によって進められてきました。
法治国家、国民主権、自由平等、等を前提とする近代社会も、神の望む世界を実現しようという多くの先人達の自己犠牲と不断の努力によって築き上げられてきました。
広くは学問、イノベーション、芸術文化等も、多くの自己犠牲の賜物と言って良いでしょう。

例えば、過去300年に最も重要な業績を残した科学者300人のうち9割が神を信じていた、ということを読んだことがあります。(「科学者はなぜ神を信じるのか」という本だったかと記憶しています)
その時代には皆が神を信じていたんだからそれはそんなものだろう、という見方もできなくはありません。
しかし、優秀な科学者であればあるほど、安易な常識などにとらわれず物事を突き詰めて考えていたはずであり、
歴史に名を残すほどの発見や発明を行なった人々(例えばニュートンやエジソン達)が、自分なりの確たる「根拠」も持たずに、「皆が信じているから自分も信じる」などということが出来たはずがない、と思います。
つまり、彼らは人並み以上に強い根拠と信念を持って神を信じていたに違いない、と考えるのです。(もちろん「根拠」は科学の言葉ではなかったでしょうが)
そして、彼らにとって科学的真理の探求とは、「神が創った世界をより深く知る」ことであり、「神の知恵に触れる」ことだった、はずに違いないと考えています。
(これは私個人の考えだけではなく、多くの本に書かれていることでもあります)

日本においては、現代は科学知識や情報が行き渡り、人々が賢くなったから宗教離れが進んでいる、つまり「進歩したので」、無知な時代の産物である宗教を克服できた、かのように見られることがあります。
しかし私の感覚では、実際はむしろその逆であり、表層的な知識や情報が氾濫する現代社会の中で、人々が物事を自分で深く考える余裕や力を失い、また分業化や専門化が進み社会が細分化された結果として人々の思考がタコツボ化し、総合的全体的に俯瞰して本質を捉える「知的直感力」「総合的知性」が弱まった結果なのではないか、と考えています。

特に日本においては、宗教=迷信/無知/前時代的、の如く捉えられ、無宗教=進歩開明/知性的/科学的、の如くに考えられているかと思いますが、日本社会に広く見られる思考停止状態は、おそらくそのあたりから始まっているのではないか、とも思っています。
この世界の意味、我々の立つ土台にある文明の意味を真剣に考えないままに、どんな意味のある思考や行動が積み上げられるだろうか、ということですね。
(それらを真剣に考える上で、文明の基盤をなす宗教の深い理解は避けて通れないはずです)

次に、宗教の果たしている役割の例として、(まだまだ課題は山積ですが、ともかくも)人類が現在のような豊かで安定した世界(飛行機で世界を行き来でき、ネットで世界の情報を得られ、貿易で物資を融通し合う、ような)を手にすることができたのは、キリスト教由来の平和主義、自由平等、自己犠牲、等によるものだ、といったことが挙げられるのではないかと思います。
(現在はいろいろと綻びも見えてきている感じではありますが、少なくとも一旦はそういった状態へ辿り着けた、ということは大きな成果と言って良いでしょう)

例えば、現在のイスラエルによる大規模な空爆は、「キリスト教以前の世界の姿」を私たちに示している、と感じています。
旧約聖書には「目には目を」(イーブン以上を求めてはいけない)と書かれているわけですが、愚かな人間はそれで留まらなかったわけですね。
旧約聖書には、そのように延々と人間が繰り広げる泥沼が描かれています。
(現在のイスラエルを見てください。お互いが倍返しを続けていったらどうなるかは、火を見るより明らかですね)
そして新約聖書では、見かねた神がイエスを遣わし、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」「下着を取られたら上着をも与えなさい」といったメッセージを伝え、さらに最後には「罪もないのに十字架にかけられ無抵抗で死ぬ」という形で、身をもって手本(higher ground)を示したわけです。(そんな無力な神様がありますか?という感じなわけですが)

人々がいくらキリストを信じるからといって、そのまま、無抵抗で殺されることを真似るのは流石に難しいわけですが、神を信じる以上はそういったメッセージを完全に無視することはできません。
そこで、お互いに限界ギリギリまでの忍耐、努力、抑制、そして倫理的対応、が求められることになります。
それにより、時間はかかりましたが、紛争等の報復が徐々に抑制的になり、また周囲もそのような基準の行動を求めることで、現在水準の世界平和が可能になった、というふうに考えています。

戦後の長く続いた安定は、単に、お互いが痛い目に遭いたくないがための「相互利益に根差した相互監視と抑制」だけでは達成はできなかったのではないかと考えています。
必ず「そんなことは知らない」、と行動する者が現れ、ひとたび始まれば再び拡大再生産の泥沼へと進んでいくに違いないと思われるからです。

もちろんアメリカのようなスーパーパワーが存在したため好き勝手はできなかった、ということはあるかもしれませんが、やはりそれだけはでなく、ヨーロッパとアメリカが聖書の理念(自由主義、民主主義)をベースに連携し、それを世界における倫理判断、価値判断のベースとしていたことは大きく、また人権等「理念」の土台を共有する広い協調も必須だったと思われます。
そして、その「理念」を裏側で支えているのは、今日においてもキリスト教であるわけです。
(従って、現在世界のキリスト教の退行は、世界の不安定化を招く憂慮すべき事態であり、見方によっては世界の安定を脅かす最大のリスク要因、とすら言えるのではないかと考えています)

いや、宗教などなくても日本人はもっと平和的だ、宗教こそ争いの元凶ではないか、というのであれば、それはおそらく先の大戦のことを忘れていますし、(あり得ませんが)仮に日本がアメリカに勝っていたらどんな世界になっていたであろうか、を想像してみれば良いのではないかと思います。(因みにここでは天皇崇拝は宗教とは考えていません。寧ろ政治あるいは文化と捉えるべきでしょう。少なくとも啓典宗教に見られる明確な教義や行動の指針などは存在していません)

また国連など、数ある国際協調の枠組み等も、先進国間でキリスト教の共通理解と、それによる理念の共有、があったからこそ可能になったものだ、と考えており、共通の基盤(キリスト教)が不在であれば、仮に協調が可能であったとしても、今より遥かに脆弱で機能しないものになっていただろう、と考えています。

もちろん不完全な人間が動かしている世界ですので、いくら宗教があっても間違いは犯しますし、あるいは思想を曲解して過激な行動をとるような人々も出てくるのは避けられません。
しかしながら、宗教がなければそもそも全体の平和が存在しえなかっただろう、ということを考えれば、部分的な間違いや争いは、相対的に小さなエラーと言っていいのではないかと思っています。
(宗教がなければ、「力が全て」の、血で血を洗う争いが現在までも続いていたのではなかろうかと想像します。但しその場合は、核技術の出現によって世界は既に終わっていた可能性が高い、かもしれませんが)

つまり、トータルで見れば宗教は平和側に「より大きく」寄与しているだろうと考えており、「宗教が争いの元」は、木を見て森を見ずの言説ではないかと考えています。
(少なくとも、その前提となっている「平和の存在」を当然視している時点で、いささか想像力を欠いていると感じますし、もう一方の、宗教の存在が平和に「どのくらい寄与しているか」、といった観点が抜けている限りは、バランスの取れた議論とは言えないと思います)

また、日本が泥沼の紛争から比較的無縁で来られ、現在も平和的でいられるのは、地理的に圧倒的に安全な島国(自然の要塞)であり、さらに戦後はアメリカにとって(地理的に)重要なアジア拠点であったことから、強固な安全保障が約束されてきたため、でもあるでしょう。
日本人の思想や考え方が優れたものだから平和的な考え方ができる、とは思いません。
歴史的、地理的にイスラエルの状況と同じだったらどうなっているだろうか?ということですね。
常に迫害と民族存亡の危機にさらされ、「進むも地獄/退くも地獄」の泥沼の歴史、およそ我々日本人の想像を超えた困難に満ちた世界の中で、「平和が一番」などとも言っていられないのも、また現実であろうとも想像します。

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日本においては、宗教=思考停止、と考えられがちですが、実際はむしろその逆だと思っています。

キリスト教により、本質思考、ゼロベース思考が要求されるようになり、また、合理的な社会運営が可能になると考えています。
(個人の確立/析出により、各人アイデンティティーと社会/組織等の間での心理的癒着が起こらない、などによります)

まず、キリストは、当時の社会の「常識」「多数派」によって裁かれ、殺されています。
つまり、「世の中がこうだから」「みんなそうしているから」で考えや行動が正当化されるということはあり得ない、というのがキリスト教のスタートラインとして存在します。
(日本の真逆ですね!)

一方で、聖書には神の望む大きな方向性は描かれているものの、個別具体的な話(こういう場合はこうすべき、と言った詳細)はほぼ何も示されていません。
結果として、「神の前に正しく」生きようとすれば、全ての物事に対して、何が正しいのか、正しくないのかを自分なりに一つ一つ判断していく必要性(但し聖書の示す方向性に従って)が出てきます。
いくら、「世の中がこうだからそれに従ったまで」と言っても、神の目に正しくなければ天国へは入れなくなってしまうからです。(最後の審判で結局は裁かれることになります)

特に、宗教改革以降のプロテスタントでは、権威を否定し、聖書のみに従って各個人が信仰を貫くべき(万人祭司)、といったベクトルが強いので、何が正しいのか、(常識や権威に頼らず)各個人が必死に考えて結論を出し、行動していくしかありません。

この、信仰におけるゼロベース思考と行動の必要性が、欧米社会の、自由主義や個人主義へと繋がっていきます。
そしてそのような思考、行動様式の積み重ねが文明を前に進め、数多くの発明、発見、イノベーションを生み出してきました。

そしてこれは、日本人がゼロベース思考が苦手(というより出来ない?)理由にもつながっていると思います。
既にあるものの正確なコピーや改善はできても、新たなアイデアやコンセプト、技術や理論、仕組み等を自ら生み出す力は極端に低い、これが現在の経済低迷の原因にもなっています。
何かを実現しようとする際に、常に周囲との関係や制約条件等を優先してしまい、(それらの外側にある)普遍や本質へと真っ直ぐに向かっていくことができない、という日本人の性質は、宗教の不在と無縁ではないと思っています。
(神に従うよりも、組織に従う、という社会原理の弊害は大きく、内部論理の優先は腐敗を生み、既得権益の打破を困難にし、序列や価値観の硬直化を生み、本質的なイノベーションを不可能にします)

日本では欧米における宗教改革のように、主体的に封建システムを乗り越えてきた歴史や、自由を支える精神的基盤を持たないため、「長いものに巻かれる」精神性が未だ強固です。
戦後のアメリカによって与えられた「民主化」「自由化」のレールの上を真面目に走ってはきましたが、あくまでも外から与えられたものであり、自分たちで獲得したものではないため、基盤が脆弱で、また不徹底です。
教育や社会の仕組みも、個人の創造性や才能を伸ばし、発揮させていくというより、集団の一員として足並みを揃える事(従順、均一、没個性)が重視されていますが、これはキリスト教ベクトルの正反対であり、封建的、あるいは共産主義的なベクトルとも言えます。

ちなみに、アメリカがこれまで徹底して共産主義や独裁と戦ってきたのは、それがキリスト教的自由ベクトルの反対、封建的ベクトルだから(マルクス主義は無神論でもあり、それも大きいですが)というのが主な理由であり、資本主義経済と共産主義経済のどちらが優れているか、といった(多くの日本人が気にするような)観点は2の次、3の次の副次的要素に過ぎない、ということも、日本人にはあまり良く理解されていないのではないか、と思います。
(要は神の意思に反し、人間の自由を奪う社会思想や体制を、そのままにしておくことはできない、と考えるのですね。そしてそれは建前ではなく、本心です)

そして最後に、キリスト自身が最高のイノベーターでもあります。
新約聖書において、旧約聖書の戒律主義を、否定することなく、意味を全く違うものに変えてしまう、という究極のイノベーションを行っています。

また、イエス自らが十字架にかかることによって我々の罪が許される、という救いのロジックも、大変イノベーティブなものだと感じます。
最初は「一体どういう理屈だ?」と思ってしまうような奇想天外な救いのロジックなわけですが、旧約、新約を通読するうちに大きな筋書きが見えてきて、半信半疑で信じてみると、どういうわけかちゃんと機能し(救いが得られ)、また信仰によって、ものの見方や感じ方までだんだん変わっていくという感覚は、「神が働いている」としか形容のしようがないものです。
こんなイノベーティブな「救いのシステム」を考え出せる人間が存在するはずがない、ということは、聖書を信じる大きな理由の一つにもなっています。
(そもそも、万物の創造者がイノベーターでないはずがない、わけですが)
そのようなキリストを手本とする欧米社会が変革やイノベーションを大事にするのは、当然のこととも言えます。

さて、聖書に「神に似せて人を作った」とあるわけですが、一体何が似ているのでしょうか?もちろん姿形の話ではなく、第一に「創造する」ということでしょう。
そして、一人ひとりに神によって異なる役割が与えられている、とされますので、キリスト教徒にはその「天命を果たす」ことが人生の目的になってきます。
当然ながら、教育や社会も、そういったもの(創造性、個性、才能)を重視するものになります。
逆に、いかに経済システムとして優れた成果を上げようとも、それら(創造性、個性、才能)を犠牲にするような封建的なシステムは、神の意に反する「悪」と見做され、忌諱されます。
それらが、欧米の一貫した価値観の基盤であり、自由の源泉であり、ここまで文明を前進させてきた原動力でもあるわけです。

また、アメリカの「自由」は、建国時以来の「開拓者精神」に由来するものだ、という理解が日本では一般的だと思われますが、そもそもアメリカとは「キリスト教の精神を最も純粋に具現化するべく」作られた国であり、それが一番の根幹にあるのではないかと考えています。
(アメリカのキリスト教も現在ではいろいろ問題を抱えているように思われますが、建国の理念の中にはしっかり生きているのではないかと思います)
近年は、巨大化複雑化する世界の中で、アメリカ社会内部でも色々問題が増えきているようですが、なんだかんだと前向きに解決していけるのではないか、という希望はまだ失われていないと思います。
それはアメリカ社会のベースに、キリスト教に裏打ちされた「自由への信頼」があるからだろうと思います。

例えば、訴訟が多い社会というのは、自由に付随するコストを積極的に引き受ける社会という意味で、自由の担保された社会と言えます。
訴訟が少ないということは、効率的な社会なのではなく、物事が力関係で決まってしまう社会ということであり、少数派や弱者が対等に戦う手段を持たないということであり、本質的な自由が担保されていない社会である、ということを意味します。
(自由な社会を保障するためには、必然的に訴訟社会にならざるを得ないはずであるわけですが、果たして日本人にそういった意識はあるでしょうか)

そのように、アメリカ社会には様々な形で自由を担保する仕組み、メカニズムが埋め込まれていると思います。
それだけでなく、それらを運用する人々にも「自由を守る」意識が浸透していて、(おそらくキリスト教が生きている限りは)そう簡単には崩れない、という信頼があります。
そしてその信頼こそが、アメリカが世界において圧倒的なリーダーシップを保ってきた理由でもあります。
(従って、アメリカにおけるキリスト教の衰退や変質は、リーダーシップの弱体化を意味し、戦後の「パクスアメリカーナ」が崩れる切掛けになりかねない、大変憂慮すべき事態だ、とも言えると思っています。そして、取って代わるものが中国やロシアの覇権主義、権威主義であっては欲しくないものです)

翻って、日本はそうではなく、一見自由に見えて、裏側にいろいろと封建的な仕掛けが組込まれている、という感じですね。
それでも、宗教のような強い価値軸を持たない日本人は、安全と快適、そしてある程度の自由があればまあそれでよし、という感じで、なんだかんだと受け入れていると思います。
(生活のために一定の妥協は仕方ない、という共通の了解もあると思います)

キリスト教が求める自由は、そのような「所定枠内の一定範囲の自由」(カッコ付きの自由)、といったものではありません。
なぜなら、キリスト教の信仰の中には、まさにキリストがそうであったように「神の命であるならば世界を敵に回してでも道を貫かねばならない」という徹底性、厳しさがあるからです。

キリスト教の「自由」は、そのように重く意味のあるものであり、また、それを守るためなら「命をも投げ出す価値のある」、くらいに重要なものです。
そしてそれが、欧米諸国の「共有する価値」の中心であり、あらゆる連携の基盤でもあります。
ゼレンスキー大統領があれほどに欧米社会の支持を集めることができたのは、そういった「キリスト教の言葉」で話していたから、に他ならないと思います。


Image By  Glen Bowman
日本においてキリスト教が退けられてきた理由と、今日まで至る相性の悪さの理由について少し書いてみようと思います。

日本は、表面的、形式的には欧米の自由主義システムを取り入れてきましたが、本質的な動作原理はむしろ封建システムに近い「何か」である、と思っています。

日本は「和魂洋才」の掛け声のもと、(キリスト教抜きの)西洋社会システムをひたすら輸入することでここまで来たわけですが、
過去には何度もキリスト教迫害があり、社会への定着を退けてきました。

なぜそのようにしてきたのか?
という問いについての答えはおそらく簡単で、「自由/個人主義」などという厄介なものを、封建システムの支配者が望むはずがない、というところに尽きると思います。
あるいは、権力の絶対性を保つには、「神のみが絶対」などという考えは、危険思想以外の何物でもなかったでしょう。
また、島国であることから、脅威(キリスト教)の流入経路が限られていたことも大変大きいでしょう。
一度徹底的に弾圧すれば、島国の閉鎖性、同調圧力も働き、再び入ってくるまでには大分時間が必要だったろうと思われます。

一方、そういった弾圧がなくなった現在においても信者が増えていかないのは、
当然ながらまず第一に、天皇崇拝の反動としての、戦後の宗教アレルギーがあるでしょう。
(しかしそろそろ、その段階は卒業し、真剣に世界の歴史現実と向き合い、成熟した文明国へと脱皮しなくてはならないと思います。手遅れになる前に!)

そしてもう一つ、この社会の根底に広く根を張る封建的価値観(教育段階から始まっています)が、キリスト教的価値観と大きく対立するものである、という点が大きいのではないかと見ています。
この国の現状の社会環境に適合的であろうとすればするほど、キリスト教的価値観からは遠ざかってしまう、そんな対立構造が存在し、(社会のベースがキリスト教である欧米社会と比べて)信仰の本格的な実践が難しい、あるいは、社会生活との両立のために、キリストの教えのうち範囲をかなり絞った捉え方に限定せざるを得ず、宗教の本質や価値、役割、魅力、等がなかなか伝わらない→結果として普及定着しない、そんな背景があるのではないか、という気がしています。

それらの結果、現在でも日本のキリスト教徒は人口の1%程度と、「極端に」少ないままとなっています。
(現在では、韓国では3割以上がキリスト教徒、中国でも1割を超えており、共産党の最大の脅威となっているということです)

欧米ではプロテスタントの宗教改革(万人祭司)の思想によって、初めて封建社会が本質的に打破されました。
聖書の中では、国王の存在は一応は認められていますが、それは人民が「統治者が欲しい」と神に懇願した結果、神が一時的な妥協として「許した」もの、というニュアンスのものになっており、聖書をちゃんと読めば「王権神授説」なるものの成立余地がないことは明白です。
一人一人がしっかり聖書を読み、それに従うことを正しいとした宗教改革が、「権力の否定」につながっていったことは間違いありません。
一方で、日本ではキリスト教、プロテスタントの精神が存在しなかったので、封建的社会構造、思考行動様式は今日に至るまで保たれたままです。

封建的社会構造というのは、力や権力を手にした者が、それを固定化しようとする、という形で形成されていくものであり、ある意味では「最も自然に」形成される原始的な社会構造とも言えます。
それに対し、現代社会における「個人主義」「自由主義」の社会というのは、ある意味で大変「不自然な」ものであり、聖書の思想なしにはまず到達し得なかったはずのものです。
(聖書の思想の支えがなければ、その「不自然な」状態を維持していくこともまた、難しいでしょう)

そのようにして、封建主義が打破されたのちは、さらにキリスト教から人権、民主主義といった思想も生まれ、現代社会のシステムへと進んでいきました。
そして、キリスト教は今でもそれらを支える重要な基盤であり続けていますし、これからもそうであるはずです。

ところで、人権という概念は一体どこからきているのでしょうか?
私の考えは以下のようなものです。

まず第一に、当たり前の話ですが、キリスト教のベースに、弱者に「こそ」優しくあれというのがあります。(隣人を愛せよ、の隣人とは「弱者」のことを指します)
これが人権思想のベースにあることは間違い無いでしょう。

また、キリスト教では、地上に生を受けた人間の一人一人に神の計画がある、と考えます。
ここでの「神の計画」は、我々人間に知りうるものではなく、我々人間の価値基準で測れるものではありません。

例えば、新約聖書では、路上生活者のラザロや犯罪者が天国に行き、金持ちが地獄に行くといったエピソードが出てきます。(「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しい」というイエスの喩えもあります)
つまり、地上において役に立つ、立たない、あるいは社会的に評価される人間、評価されない人間、といったことは必ずしも神の評価と一致せず、我々人間には神の計画、評価がどこにあるかを知ることはできない、という大前提があるのです。
そのため、社会的にはどのような人間でも、「役割」を果たすべく生きられる社会である必要がある(そのためにこそ社会は存在する)、という考え、すなわち天賦の「人権」という概念が生まれてきます。

もちろんここでの「役割」とは、人間社会における役割ではなく、神が与えた役割のことです。
社会の役に立つ、立たない、といったこととは全く別次元の話であり、我々人間には、内容を知ることも評価することもできません。
人間の価値は「知り得ない」のです。
そして、その「知り得ない」価値を大事にすることのできない社会は「失敗」なのです。
このような思想的背景、そしてその理解があって、初めて「人権」、そして「平等」というものは意味のあるものになります。
人権とは、「かわいそうだから助けてあげる」といった次元のものではなく、神の前における社会(そして構成員たる各人)の正当性、存在意義に関わる大問題なのです。
(単なるお題目ではないのです)

一方で、宗教のない日本社会ではどこまで行っても相互扶助、共同体の概念の延長でしか、ものを考えることができません。
そのため、「我々にとって役に立たない人間をなぜ我々が支える必要があるのか」「立場の弱い者が立場の強い者に従うのはある程度は仕方ないではないか」という感覚がどうしても付き纏い、「人権」という言葉には、常にどこか胡散臭さ、あるいは綺麗事、建前、といったイメージが伴っているのではないかと思います。
(一応、欧米に合わせて振る舞ってはいますが、本質を理解しているとは感じられませんね。難民受入れなども壊滅的ですし)

次に、民主主義についてはどうでしょうか?
これは上に挙げた宗教改革による「権力の否定」、そしてそれに代わる「万人祭司」による統治、というものがベースになっているのは想像に難くありません。
このように生まれた民主主義が正しく機能するための条件として重要なのが、国民一人一人が、(単なる利害や個人的状況のみに引っ張られず)自分の「価値判断」ができること、すなわち「万人祭司」として統治の「主権者」たりうる覚悟を持ち、学び、議論を重ねられるか、といったことであるわけですが、そのような基礎を支える「聖書の精神」に代わるものを、日本社会、そして日本人が持ち得たかどうか、ということが大きな問題になります。

欧米以外(非キリスト教圏)で、初めて本格的に民主主義を取り入れる「実験」をしたのが日本であるわけですが、結局、未熟児のような民主主義しか手にすることができていない理由は、こんなところにもあるだろうと思っています。

結局のところ、今日に至るまで日本社会、あるいは日本人は、基本的に価値判断を全て欧米に丸投げしてきたと言って良いでしょう。
そうである(自分で価値判断をしなくて良い)ならば、確かに宗教は「無用の長物」であるかもしれません。
アメリカによって敷かれたレールの上をひたすら走るだけの社会であれば、
あるいは、欧米の生み出した価値観、技術、アイデア等を忠実になぞるばかりの人生であれば、
「価値判断の羅針盤」であるところの宗教は確かに必要ないのかもしれません。
(「損得勘定」ができればそれで十分、ということにもなるでしょう。もちろんここでの「価値判断」は「損得勘定」とは別のものです)
「世界がこうしているから」我々もそうする、ということであれば、「価値判断」などという面倒なことに頭を悩ませる必要もないでしょう。
あるいは戦後の数十年というのは、それで良い時代だったのかもしれません。

しかし、大海原のど真ん中に投げ出され、どこへ向かって進めば良いのかわからないような「混迷の時代」、あるいは「本当の自由世界」では、行き先を照らす光、すなわち宗教の存在は決定的に重要です。
人間は何かの価値判断をする際に、何もない真空から価値判断をすることはできません。
必ず何かの基準に沿って価値判断を行うことになりますが、それが実物の社会や組織、利害、慣習等と切り離されていることが非常に重要なのです。

そうでなければ、新たになすべき価値判断が、既にある既成事実や既存環境に大きく引きずられてしまい、あるいは常に多数派の意見や既存の制約事項の中でのみ価値判断を行うことになり、過去を乗り越えることができず、社会は停滞してしまいます。
(さらに、年功序列といった儒教的価値観が強い日本のような国では、現状をまるで理解しない老人達に未来を託さざるを得ない、という状況まで重なってしまい、絶望的な硬直化が避けられません)

(戒律主義でない)キリスト教社会では、神、聖書という最も抽象的なものに基準が置かれていることで、「現状の軛」「慣習の罠」から自由であることが保証され、(神の名の許に)柔軟で公平、合理的かつ普遍性のある「価値判断」が、「状況の変化に合わせてその都度」行われることを可能にし、それが、現代社会システムの「強さの礎」となってきたと思います。

しかしながら最近は、欧米諸国においても宗教離れと世俗化が進み、そうした「前提」も怪しくなってきているようです。
特に、社会リーダーであるエリート層の宗教離れ(あるいは信仰の変質)は、タガの外れたグローバリズム推進や資本エリート優遇、格差や貧困の無視/軽視など、社会倫理やバランスの維持に深刻な影響をもたらしているように感じられます。
それらが、極右勢力の台頭、過激派勢力の拡大、などを招き、世界の不安定化に繋がっているのではないかという気もしています。

宗教なき社会の大きな問題点の一つとして、「人間によるコントロール」を過信しすぎる点が挙げられると思っています。

宗教離れが進み世俗化の進んだ現代社会の一つの病として、「何もかもをコントロールし、秩序化するべき」であるという指向性、圧力が存在していると思います。
(そもそも宗教的土台のない日本においては指向性は殊更大きいはずです)

しかしながら、コントロールは常に正しいのでしょうか?
また、「獲得すべく努力すれば獲得できる」種類のものであり、目指すべきものなのでしょうか?
「自分たちで何でもコントロールできる」と言う幻想のもと、人類は地球の限界負荷を遥かに超えるエネルギー消費社会を生み出してきてしまいました。(コントロールは結局、できていなかったわけです。)
また、個人単位で考えれば、コントロールを一旦手放した先でなければ、真の芸術を産み出すこともできなければ、創造的イノベーションも産み出せません。神を受け入れることもまた、できません。
そして、社会単位では、弱者やマイノリティに優しい社会、あるいは多様性のある社会も、実現できないでしょう。

一定のコントロールの放棄(神に任せること)、を前提としなくては、真に人間にとって価値ある世界は実現できないはずだ、と考えます。
むしろ、コントロールを積極的に手放す能力こそ、人間や社会の真価が問われる部分ではないか、とも考えています。
(もちろんコントロールを完全に失えばそれは狂人であり、また無政府状態でもあるわけで、程度ややり方の問題はありますが)

そういった観点から、コントロールを手放すことを忘れた(あるいは「知らない」)現在の日本は、大変危機的な状況にあるとも感じています。
未来から限度を超えた借金を重ね、現在の社会序列や既得権を無理矢理にでも保とうという社会のあり方は、およそ天に唾するものでありますし、官僚誘導的な経済、円安誘導(今はないですが)、無際限な金融緩和、恣意的な許認可や業界規制、バラマキ、受験競争に年功序列、終身雇用、そして「自助、共助、公助」「自己責任」といった言葉がポンと出てくるといった、様々な「コントロール信仰」はいずれ必ず、自らを滅ぼす原因になるはずです。

あるいは既に、そうなりつつあるかもしれません。
どこまでも進む少子化に、止まることを知らない過剰債務、という最悪の組み合わせを解決する道は、果たしてあるのでしょうか?
そして、この国の政治家は「隷属への道」すら読んでいない、あるいは読んでも意味を理解していないのではないか?とも感じます。
野党に至っても「大きな政府」路線を批判しようという勢力すら見当たりません。
どこを向いてもポピュリズムしかなく、与党も野党も、政治家達は権力の椅子に座りたいだけで、国の未来など真面目に考えてはいない、というのが実態かもしれません。
(但し現在の石破総理はプロテスタントなので、バランス感覚に一定の期待を持っています)

例えば、戦後の日本の発展の下地は、戦争による既存秩序の解体、アメリカによる寛大な民主化政策等により、「たまたま」生じた「封建社会の空白」により準備されたものであり、「自分たちの知恵と努力」によって獲得したものではありません。
その後、戦後世代が必死に努力したことによりここまで発展してきたことは間違いありませんが、その前提条件を整えたのは自ら知恵と能力ではなく、歴史の偶然です。

しかし、高度成長の大きな成功体験はそういった「コントロール外の要素」「自らの能力を超えた要素」があったことを忘れさせ、最終的に、現在の危険な「コントロール至上主義」へと邁進する下地となってしまいました。
(あるいは自分たちの努力の成果を賛美したいがために「あえて忘れてきた」「見ないことにしてきた」のかもしれません。)
気がつけば、戦後にはあったはずの、自由で挑戦可能な環境は失われ、徳川時代のごとき封建的な社会が復活してしまっているのが現状です。
柔軟で弾力性のある社会実現のために、コントロールを手放す「知恵」が足りなかった、ということではないかと思います。

また、コントロールをもっと遡って考えてみれば、
文明の進歩発展は誰かの意図やコントロールによって為されてきたものではありませんし、
さらには、ものを考え、科学的発見を可能にする「脳」自体、我々が意図し、努力して獲得したものではありません。
DNAや、生物の進化は?我々はいかにしてこのような高度な機能と能力を備えた生命体として存在するようになったのでしょうか?
もちろんですが、我々は自らの努力とコントロールによってこのような存在へと辿り着いたわけではありません。

それでは、科学はそれらに何らかの答えを与えてくれるでしょうか?
否、それどころか真っ向から矛盾しているのではないでしょうか。
我々を我々として存在させているのは、DNAであり、高度な脳であり、消化や代謝、免疫、神経を含めた高度な生物機能であるわけですが、自然に、全くの偶然から、そのようなものが生まれるのは確率的に「ゼロ」と言っていいでしょう。(数学や確率理論を持ち出すまでもなく、直感でも「あり得ない」ことは明らかです)

また、無から有(無秩序から秩序/機能)が生み出される科学理論というのは寡聞にして知りません。
もしそのような法則が存在するとして、我々人類はその理解への第一歩目すら踏み出せていないと思われ、そこからの解明に答えを期待して生きることは難しいと言わざるを得ません。
その点で、科学はまるで無力であり、はるか昔から説明(ストーリー)を与えてくれている宗教に遥かに分があります。

本当に科学的に真面目に考えるのであれば、我々は存在してはいけないはずであり、存在すること自体が、現在科学の説明する世界と根本的なコンフリクトを抱えています。
エントロピー増大の法則(科学)に真っ向から対立し矛盾する秩序的機能的存在、それが生命であり、我々人間であり、地球上の生態系である、というわけです。
むしろ、そういった根本的矛盾の存在を平気で無視し「今は科学の時代」「宗教は過去の産物」と簡単に言う人々こそ、批判的思考力を疑わざるを得ません。

また、それらの矛盾を説明しようと(厳密には違うかもしれませんが)、多世界宇宙などSF的な理論も登場しているようですが、私にはそのような線からも存在の矛盾が解明されるとは思えません。
仮にそのような理論が正しかったとしても、なぜ我々はこのように完全に(破綻なく)秩序立てられた世界に「たまたま」存在しているのか?という問いに答えうる科学的手段は結局、存在しないだろうと推測します。
つまり、「科学から答えは得られない」だろうということです。
そしてそれは、神が我々に「証拠」を持たずに「信じる」ことを求めていることと一致します。

「証拠」があるなら「信じる」という行為は成立しませんよね?(それは「理解」になります)
しかし聖書の神は人に「信じる」ことを求めています。
つまり、「証拠」は与えられないはずだ、ということであり、それは聖書のベクトルからすれば自然なことです。
(「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」、とも書いてあります)
神が「あえて」そうしたのか、手段がなかったのか、は分かりませんが、証拠が与えられることはない、見る前に飛べ、ということですね。
信仰とは自らのコントロールを一旦手放す(神に委ねる)ということでもあります。
そしてそれが「信仰」の非常に重要な部分を成しています。

「信じる」という行為自体が大変重要なのですね。
もし「信じる」能力でなく、「理解する」能力によって神に評価されるとしたらどうでしょうか?
貧しい家に生まれ、十分な学問を積むことができなければ正確な知識を持って「理解する」ことはできませんが、神はそのようなことを望んでいません。
2000年前の人々にも、犯罪者にも、ホームレスにも、神を信じることは可能です。そうでなくては意味がありませんし、新約聖書ではホームレスのラザロや犯罪者が天国へ行き、金持ちが地獄へ行く様子が描かれています。
社会的にはどんな人間でも、悔い改めて神に従うならば天国に入れる、この福音があるからこそ宗教として意味を成します。(救いになり得ます)
抽象的になりますが、「信じる」能力こそが、人間と動物を分けるものではないか、とも思っています。

日本においては「信じる」のは愚か者の行為だ、というくらいに考えられているのではないかと思いますが、人間の本質に対する大変な考え違いではないかと思っています。

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ここで、科学と宗教の対立についての考えをもう少し書こうと思います。
日本では宗教と科学は全く対立することのように考えられていますが、私はそれとは反対に、相互補完し何倍にも強め合うものだと考えています。

まず前提として、科学は我々に自然を分析し、操る(manipulate)能力を与えてくれていますが、
そもそもなぜ物質や生命が存在するのか、また科学法則はどこからきているのか、といった最も根源的な問いにアプローチする力は持っていません。
(先述のように、我々の存在一つ、さらにはバクテリアの存在一つ、科学では説明できませんし、ゼロから作り出すこともできません)

一方、新約聖書には、「はじめに言葉があった。すべてのものは言葉によって作られた。言葉によって作られなかったものは一つもなかった。」と書かれているわけですが、
物理化学法則、物質の構成、DNA、等々、宇宙を構成するものはすべて完全に「言葉(ロジック)」であり、数百年かけて科学が解き明かしてきた「世界の構造」は、ある意味その時すでに言い当てられているわけですね。
元素もDNAも知られていなかった2000年前の書物に、このように書かれていることは大変な驚きではないでしょうか。
(その当時の人々が、「世界は全て同じ原理原則で貫かれている」などと想像できたはずもなく、偶然にしては出来すぎていると思います。果たして神でなくて知り得ただろうか?ということですね)

つまり世界の理解という意味においては、大筋において、科学は聖書の裏書きをしてきたにすぎないかもしれません。
そして、殊に存在論的なテーマにおいては、科学の力は足許にも及びません。
宗教において大事なのは世界や人生の意味づけであり、パースペクティブであり、思想理念の追求である、ということです。
つまり、役割や守備範囲、ベクトルの向きが全く違うのであり、「科学があれば宗教は要らない」は全く的外れの議論と言えますが、日本ではそのような表層的な考えに囚われ、空虚な世界観(世界や人生は無意味、人間の存在はランダムな自然淘汰の結果に過ぎず本質的に無価値、金/快楽/快適/安全、そして生存競争が全て、等々)で生きる人々が多いと思います。
(それがこのようなギスギスした「生きづらい」、「息苦しい/閉塞した」環境を生んでいるとも思います。)

宗教と科学は、お互いに補い合って、世界と人生にトータルな意味づけと手段を提供するものであり、どちらも人類にとって欠かせないものです。
どちらかを欠けば、世界の意味は半分(あるいはそれ以下)になってしまいます。

また例えば、「進化論があるのに、神が土から人を作ったなどと書いてある聖書は間違いだ」と否定する見方も多いかと思いますが、それについては、神はその時の人々に伝わる言葉でメッセージを伝えた、ということに過ぎないと考えます。
2000年前の人々に、
「常に変化する地球環境に適切に追随しつつ生物的に発展していくメカニズムとして、ランダムネスを取り入れたDNAというものを考案し、ものを考え文明を築く能力を持つ人間という存在に、最終的に到達するように設計した(人間を作った)」
と言っても、何も伝わらないはずですよね。

ところで、「進化論は完全なランダム」といったイメージが一般的にあるかと思いますが、そんなことでこんな高度な機能体が実現するはずがありませんよね。
外界の食物からエネルギーや体の成分を作る消化機能を持ち、光信号を神経で伝達し映像化処理を行い、あり得ない小サイズ&小エネルギーで稼働する万能AIや、自動生成するウイルス駆除機能、まで、皆が最初から備えています。(ネズミやハエさえも!)
人間に至っては、大きな病気さえなければ、部品交換なしで100年も稼働可能な究極の有機化合物マシン(超高性能AI搭載)です。凄過ぎますよね。

そして、それらの高度な機能の全てが、目に見えないDNAにコードされているという、奇跡のシステム/メカニズムが存在するわけですが、そんなものが「偶然に発生した」などということが有り得るでしょうか?
NO WAY !! 小学生でも「あり得ない」とわかるのではないでしょうか!
それなのに、大人達はどうしてそんなナンセンスを平気で受け入れているのでしょうか?
(大人になると「バカ」になってしまうのでしょうか?)

進化におけるランダムネスは、(動的に変化する)地球環境に合わせて方向を修正し、同時に多様性を確保するためのメカニズムとしてあらかじめ「仕込んで」あるのであり、戦略的に組み込まれている一要素(複雑高度な進化メカニズムのうちの)に過ぎないだろう、と思っています。
一要素に過ぎないはずのランダムネスを過大評価しすぎて、「進化論=ランダム=唯物論の証拠」のようになってしまっているのは残念でなりません。
ランダムネスが大きすぎても、小さすぎても、奇形だらけになるか、環境変化に追随できず滅亡するかで、到底種を保つことはできないはずで、実に絶妙な範囲に設定されているではないか、と思います。
(自然淘汰により自然と適切値に集約されるのだ、と言ってみても、やはり出来過ぎの感は免れませんし、そもそも集約され適切値に落ち着く「メカニズムの存在」があるなら、それ自体が出来過ぎですよね!)

逆に考えれば、常に変化する地球環境の中にあって、ランダムネスを含まない固定的システムとして生命を設計していれば、いずれ機能しなくなるのは明白なので、ランダムネスをシステムに組み込むことは(設計者にとって)当然の判断であり、進化におけるランダムネスの存在は全く驚くに当たらない「自然な帰結」とも言えるのではないかと思います。(つまり、ランダム=神の不在、と短絡的に結びつけることに意味はないだろう、ということです)

そしてさらに、進化の背後には、ランダムネスとは別に、(我々の未だ知らない、何らかの)方向性を決めるメカニズムが存在しているはずであり、「最終的にこのような状態に到達すべく進んでいく」といった「方向性」がなければ、ランダムの繰り返しだけでこのような複雑高度な機能体へ辿り着くはずがない、というのが私の考えです。
(最終的な状態として、姿形までの想定があったのかどうかは分かりませんが、少なくとも聖書には「神に似せて人を創った」とありますので、「創造する存在」としての性能目標は存在し、それは達成されているのではないかと思います。創造と、神との交信(信仰)が可能であれば、姿形はネズミ、あるいはタコのようなものでも良かった、かもしれませんね。勝手な想像ですが!)

さて、「機能体に対する計画の必要性」を、もう少し具体的にイメージするための例として、例えば生成AI技術を挙げてみると、その中で使用されているランダムネス(確率的要素)は、確かに学習や応答の重要な位置を占めているわけですが、あくまでメカニズムの一部として高度な数学理論の上に組み立てられ、戦略的に「利用」されているのであり、作り手が様々なパラメータを調整しながら試行錯誤を重ねることで、ようやく意味のある回答を返すことができるようになるわけですよね。(それでもあのような人間的な回答は「奇跡的」と感じますが!)

そのような明確な設計もなく、何の意図も方向性もない「単なるランダム試行」をどれだけ繰り返しても、意味のある回答を返すAIなどできるはずがない、というのは考えるまでもなく明らかなことだと思います。
同じようなことは自然界の進化についても言えるはずだ、というのは、(素直に考えれば)当然のことではないでしょうか。
単なるランダムから、意味のある機能体が生まれる可能性は間違いなく「ゼロ(0.000000.....)」です!

聖書の記述では、例えば「神が人間を創った」ことを、「当時の人々が直感的にイメージできる言葉」で表現されているので、科学知識の発達した現代の我々には大いに違和感があるわけですが、当時(そして現在に至るまで)の人々にメッセージを伝えることには成功しており、その事実が最も重要なわけです。
神を信じ、それに叶う世界を築こうと人々が努力を重ねてきた結果が現在の文明であるわけで、この文明に何らかの価値があるとするならば、(科学的には間違いであっても)当時の人々にメッセージを伝えた意味は大変に大きかった、と言えるのではないかと思います。

そのように考えれば、「科学的に間違った」記述があるからといって、聖書を否定すべき理由には全くならない、ということが納得されるのではないでしょうか。
(科学的に不正確な記述=信じるに値しない、という観点は枝葉末節であり、重箱の隅であり、また近視眼的、というものでありましょう。)

欧米が長い時間をかけて築き上げてきた文明から、意味と目的、歴史文脈を取り去り、無機的な「システムの劣化コピー」をひたすら作ってきた、戦後日本の現在の到達点は、
ただ、金を稼ぎ、飯を食い、子孫を残して生き延びる、それ以外の意味も目的も、いかなる価値も存在しないといった、人類史上例のない「究極の物質社会」(快適が全て)になってしまっていると思います。

いかに忙しく立ち働いていても、その先にあるのが「より良い世界の建設」といったものではなく、単なる「快適や、勝ち負けの追求」に過ぎないならば、それは一種の「堕落」とも呼べるのではないでしょうか。
(戦後の日本が永らく拠り所としてきた「目的なき勤勉信仰」は、社会がうまく回転している間は良くても、一方で思考停止や惰性、差別意識等と大変結びつきやすい諸刃の剣であり、余程気をつけて扱っていかないと、今後の日本社会、また地球環境に対し、大きな負の影響をもたらすことになるのではないかと思います)

そして、「より良い世界の建設」について考える上では、現代文明の根幹をなす「聖書の精神」を理解することは、避けて通れないのではないかと思っています。
古今東西、あらゆる文明の根幹にあるのは宗教であり、それを欠いた現在の日本は如何なる文明にも属しない、「準文明」とでも呼ぶべき状態にあるように思います。
(「封建的統治機構」と「世間様」はありますが、「市民社会」の存在自体も大変疑わしい、と思っています)
このような社会に生きて、もし何ら空虚さを感じないとすれば、その人は既に感覚が麻痺しているのではないか、とも思えますし、この世界や人生に何ら(前向きな)意味がないとするならば、少子化が進むのもある意味当然ではないか、とも感じます。

雑然と書き連ねてきましたが、ひとつ言えることは、絶対的な信頼に値するものはこの世には存在しないけれども、ただ一つ、聖書の教えだけは正しいと考えて良いだろうと「感じている」、ということです。

これは理屈ではなく、信仰の体験を通して体感的な確信を得ていくといった性格のものなので、信仰を持たない人に対してその理由を説明する言葉は存在しないのですが、その遥か手前に日本社会に存在する、強固な「宗教の否定、拒絶」に、実際は見るべき根拠がないのだ、ということをどうにか説明し、日本人の聖書理解をブロックする「思考障壁」を取り除く一助となればと、自分の考えを書いてきたつもりです。(何かしら伝えられていると良いのですが)

現在は、日本社会に存在する様々な先入観や偏見を克服し、まずは文明の原点でもある「聖書に帰る」、ということが何よりも求められている時代ではないかと感じています。
聖書抜きの人類歴史、文明などあり得ませんし、聖書の助けなしにはこれからの未来展望もまた、描くことはできないはずだと考えています。
(ユダヤ教(旧約)もキリスト教(旧約/新約)もイスラム教(旧約/新約/コーラン)も、同じ神を崇める姉妹宗教であり、聖書の神(唯一創造主)を信じる人口は世界の半数を優に超えています。この流れが大きく変わるということは今後もあり得ないといって良いでしょう)

また、個人にとっても、人生のパースペクティブを与えてくれる聖書の存在は、混迷の時代に欠かせない重要な役割を担うものであるはずだ、と思います。
そのようにして、文明の原点に立ち帰り一人一人が自分の頭で考えていくこと、そしてその集約により、歴史文明の文脈にきちんと接続する形での、大きな価値を実現していくことこそが、この混迷の時代を生きる我々に残された一筋の光明であるだろう、と考えているものです。

地球環境を持続可能レベルに保つ経済システムへの大シフトなど、これから人類は互いに協力し合い、大きな課題をいくつも乗り越えていかなければならない時代を迎えます。
大きな観点で考え、問題に向かうパースペクティブは、今まで以上に、これからの人類、そして日本人にとってもますます重要になっていくのではないかと考えています。
そして、それを根底において支え、可能にするのは、「聖書の精神」をおいて他にあり得ないと確信しています。

none

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